太平洋戦争末期に激しい地上戦が繰り広げられ、日米あわせて約2万9千人が戦死した硫黄島。
1994年には上皇ご夫妻が、平成の天皇、皇后在位時に戦没者慰霊のため訪れており、約30年を経て、令和の両陛下が訪問する。
▪️玉砕の島、残る1万人の遺骨
硫黄島は、都心から南へ約1250キロの太平洋に浮かぶ島だ。さらに約1200キロ南には、サイパン、テニアン、グアムなどからなるマリアナ諸島がある。
戦争末期の44年、マリアナ諸島を手中に収めた米軍は、日本本土を空襲する基地をテニアンなどに整備。基地から本土への中間にある硫黄島を、爆撃機B29が燃料を補給する重要な中継地と捉えた。
45年2月、米軍は硫黄島に上陸。日本軍は、総延長18キロに及ぶ地下壕を張り巡らせて抗戦し、36日間の「硫黄島の戦い」で、日本側約2万1900人、米側約6800人が戦死した。戦前から暮らしていた島民男性のうち、軍の食糧調達などのために残された人たちも犠牲となった。
島では今も、1万人以上の遺骨が見つかっていない。
▪️戦後、日米の訓練の地に
硫黄島を含む小笠原諸島は、戦後、米国の施政権下に置かれ、硫黄島と父島には核兵器が持ち込まれた。
終戦から23年後の68年、小笠原諸島は米国から返還されたが、日本政府は硫黄島を復興計画から除外。硫黄島を、火山活動が激しく産業の成立条件が厳しいことを理由に「一般住民の定住は困難」と位置づける一方で、自衛隊の基地整備は進められた。
海上自衛隊は、硫黄島近海での実機雷処分訓練を72年から続けている。米軍は厚木基地での騒音苦情問題を受け、硫黄島でFCLP(滑走路を空母の甲板に見立てて離着陸を繰り返す訓練)を91年から行っているほか、日米共同の訓練もある。



▪️「いおうとう」と「いおうじま」
戦闘の影が色濃い硫黄島だが、戦前はどんな島だったのか。
本格的な開拓が始まったのは明治時代。日本政府が領有を宣言し、東京府小笠原島庁の所管とした。
文字通り、硫黄の採掘に始まり、砂糖の生産や、医療・軍需用コカインの原料であるコカ栽培などへと主産業を変えながら、人々は漁業や農業を営み、牛や豚などの家畜を飼育し、穏やかな生活を営んだ。
テニスや野球が盛んで、神社では奉納相撲も行われた。



ちなみに硫黄島は「いおうとう」と読む。
戦前、島民たちは自分たちの島を「いおうとう」と呼んだが、米軍が「いおうじま」と呼ぶなどして、その呼称が戦後、一般に広まっていた。
島民と小笠原村の要望を受け、国土地理院が「いおうとう」への呼称変更を発表したのは2007年、ハリウッド映画「LETTERS FROM IWO JIMA(邦題・硫黄島の戦い)」公開の翌年だった。
▪️戦後80年、新たな息吹
硫黄島の暮らしの記憶は、今、島民たちの孫世代によって受け継がれようとしている。
祖母が硫黄島で生まれ、島の話を聞いて育った羽切朋子さんは、夫の学さんや、祖父母が島出身の西村怜馬さんらと2018年に「全国硫黄島島民3世の会」をつくり、戦前に島で暮らした人たちを訪ねて、聞き取りを重ねている。
帰れるものなら故郷に帰りたかった。でも、叶わなかった。今年96 歳になる羽切さんの祖母を含めて、多くの島民が、そうした思いを抱えて疎開先で暮らしてきた。
「硫黄島のことを聞きたい、と言うと、みんないきいきと楽しかった思い出を話してくれて、目の前に、美しい島の景色がパーッと広がる」と羽切さん。
島では一昨年、戦前に使われていた、牛の力でサトウキビを絞る圧搾機の一部が見つかった。戦争が奪った生活の痕跡が、生い茂った緑の中で、ひっそりと息づいていた。
「まだきっと島のどこかに、暮らしの跡は残っていると思う。たくさんの人に、戦争だけじゃなく、豊かな暮らしがあった硫黄島を知ってほしい」
(取材・文=川村直子)
